新進気鋭の女流絵師・歌川芳花ことおいちは、
出世作『竹林七美人図』で彫師をつとめた才次郎と
恋におちる。
一途に才次郎を求めるおいちだが、
才次郎には女房と子供が待つ家があった・・・。
江戸の町で恋と仕事に生きた“キャリアウーマン”たちの
哀歓(あいかん)を描いた直木賞受賞作品。
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おいちはいつも誰かを待っていた。
母のおあさがこの世を去った時、
おいちは七歳だった。
遊び仲間は夕暮れになれば母親に呼ばれ、
家へ帰って行くのだが、
おいちの家には明かりもついていない。
おいちは暗い家へ入るのが怖さに、
いつも地面に絵を描きながら
与兵衛の帰りを待っていた。
六つ(午後六時頃)の鐘が鳴って日が暮れて、
それでも帰って来ない父親を
駒止橋(こまどめばし)の方まで迎えに行って、
涙のにじんできた目に
股引(ももひき)の紺色がにじんで映ったこともある。
無口な与兵衛は、泣いているおいちを
あやすこともできなかった。
「帰って来たじゃねえか」とだけ言って、
抱き上げてくれるのである。
衿首にしがみついて触れた父の頬は、
毎朝剃ってゆく髭が生えかけていた。
簡単な夕飯を食べ終えると、
おいちは、与兵衛の膝に坐った。
与兵衛の膝の上で遊び、
仲間の似顔絵や、
こわごわ見つめていた虫、
飽かずに眺めていた道端の雑草などを
描いていたのだった。
何も言わなかったが、
与兵衛は嬉しそうだった。
おいちの描いた自分の姿を、
お守りのように懐へ入れていったこともある。
後に手間取りの男から聞いたところでは、
普請場の誰かれとなく見せてまわっていたという。・・・・・・・・・・・・・・・・
物語としては、せつないと言うよりも、
少々相手の男「才次郎」に対して、
情けなさと、憤りに近いもの悲しさを感じ、
「おいち」への共感を高く感じました。
女性が一人立ちして仕事をして行くと言う事は、
現代でも大変なのに、
江戸時代では尚更並大抵の事ではないですよねぇ・・・
何かを得る為に多くの事を我慢し、
失っても来た「おいち」・・・。
おいちが絵師になることを父親は反対しませんでした。
むしろ弟子になるべく師匠を探してくれたりと、
おいちにとって今は亡き父親との生活が
どれほど楽しかったことか・・・。
才次郎の女房と娘を見たおいちが、
一人自分の家に帰って来た場面で、
幼い頃の自分を思い出します。
ストーリーの面白さよりも、
北原さんの深くて美しい文章に
時間を忘れて読み切りました。